ぐんま山林自然楽校
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コラム

おしらせ      -2012.9.22-

2012.09.22

第15回 群馬銀行環境財団賞 受賞!

  このたび、ぐんま山森自然楽校の活動が認められ、
 すばらしい賞を受賞することが出来ました。
 これはひとえに、幣校を応援してくださった皆様、
 これまでに入楽(活動プログラムに参加)して下さった
 皆様、並びにお子様を送り出して下さった
  保護者の皆様のお陰です。
 この場をお借りし感謝申し上げます。
 また、活動のフィールドである赤城山の大自然と
 山の神様にも、先日、報告に行ってまいりました。
  今後も皆様と自然の中で楽しい一時を過ごせるよう
   活動を続けて行く所存です。
   また"自然の中でお会いできる日"を楽しみにしております。
   ありがとうございました!!

                              Ken

絶望の地の"希望" 春塵舞う東北の未来

2012.04.06

  常さんに会いに行く。

 やまもり 東北農村部 トマト事業課 がんばってます。

 現在、宮城県登米市で農業修行中のさん。 
来年には、独立して"幻のトマト"を生産し、農家の道をスタートすべく、また
大震災からの復興へと、すっかり東北の地人となり、元気に励んでおりました。

 のどかで雄大な田園風景が広がる米どころ。 無数に散らばるこんもりした
緑の小さい丘が素朴な農村に色を添えてます。 日本の里山。原風景。春の塵
道路のほとんどが曲線をなし、大きく区分されてる畔だけが直線を引いてますが、
長いときをかけて維持され、人の手によって整えられたラインは、やさしく、美しい。
 東に北上川が悠々と流れ、奥羽山脈と三陸海岸のはざまに肥沃な平原を形成し、
自然の調整池が点在している。 大稲作地だが、過去には幾度となくやませ(山背)
が襲い、凶作・飢饉を発生させ、農村の人々を苦しめた歴史は近代史までつづく。  
  ひとめぼれ 感心するしかない糸井重里のネーミングだが、この耐冷性極強
水稲品種の登場により、ようやく東北の米農家に晃かな光がもたらされる。 

低くよどんだ空に春の兆しがみれる。 怖ろしいほどのトビが自由に旋回してる。
 

 鳥屋の常さんに案内され、観察に出かけた近所の伊豆沼。 かの水鳥たちは、
すでに北へ飛び去っており、そのサンクチュアリーは寂しいかぎり。帰りそびれた
二羽の白鳥だけがオリーブ色の湖に淡然と浮かんでる。

スペシャリストは渡り鳥の聖地にて、農作業の傍ら共存する鳥たちを眺め、勤しむ。
そして冬鳥たちが求める人々もまた、寡黙で、大地に根ざすかのように、この地で、
延々と、風景を形づくる。 冬の田んぼと渡り鳥。 凍らない浅沼。共生。環境。 

ここに訪れる何万羽のたち、マガンにいたってはここでの越冬期間中、体重を
20%以上も増やし、4000kmにも及ぶシベリアへの長い北帰行に備える。
 それを可能にするエネルギー (海を渡るさいは2000kmの距離をいっきに飛ぶ)
源としての最良の餌さが、田んぼに眠る米つぶ であり、 大型のツルやハク
チョウ類からカモ類、小型のカシラダカやオオジュリンまでのすべての渡り鳥の
格好の恵みとなっている(留鳥も当然)
(常さんの話によれば、農業の近代化・機械化に伴い、特にコンバインでの
 収穫がもたらす 落ち穂は、かなりの量になってるはず) とのこと。

また、落ち穂以外に、田んぼに生え出した雑草も食べてくれ、そして、糞まで残し、
貴重なリンの大事な供給源になっている。 見事な相利共生です。


  夜明けとともに羽ばたき、冬の田んぼで必死に米をついばむ、
  夕陽とともに安息のねぐらにかえり、いつかくる大飛行を夢見る。


 はじまりは遥か昔  冬鳥と東北の稲作文化  - 人との共生・共存 -
                              縄文・アイヌ・東北・雁・渡り・絆 


 ちなみに、登米は「トメ」と読み、古くは「トヨマ」、「トマイ」という地名で、"遠山"
という時代もあったらしいが、語源としては、アイヌ語の「トイオマイ」が「トヨマ
に訛ったものといわれている。 そして、この 「トイオマイ」という言葉、
  「食べられる土のあるところ」という意味だそうです。

 次世代につなぐ繁殖地への渡りには、
           飛来地と、その地の人と
                  密接に関係する、いにしえから。

上空に羽ばたく雁の群れ、その見事な飛翔-雁行は、いつの時代も
人々を魅了する。 万葉のときから記述はあるが、おそらく、日本の原型
である縄文時代、その文化が醸成した、晩期の、中心地 東北の地で、
すでに関係は結ばれ始めたと推測される。

一糸乱れぬ統制のとれた等間隔の連なる飛翔は、スタミナロスを最小限
にするための空気力学的な要素と、群れとして飛ぶことで、個の能力の
総和以上を可能にする、集団として生きる術がかしこまれている。 

鳥人は言う。
「V字型の先頭はいつも同じではない。 ましてやリーダーでもない。」
「それは、まだ若くて向こう見ずが編隊をを引っ張って、経験者が
 脇を固めて、統率している。」

疑問は次々と湧いてくる。
 交代の順番と配置はどう決めてるのか? 
 群れはどのようにして進むべき方向を、群れとして決めてるのか?
  
     現代の人間社会にも応用が効く話だが、
         The answer is blowing in the wind.
               答えは風の中に吹いている。


 そして、人々を魅了してやまない情景の一つとして、彼らが見せる
  "家族の強い絆 と 仲間との結束力" 。
子どもが生まれて、その成長が幾度の渡りを通して確認されるまで、
家族はすべての行動をともにする。幼鳥の頃はもちろん、飛行訓練から
渡り先の餌場、食事のときも寝る時も。 すべてにわたり、親は交代しながら、
決して警戒を解かない。 群れの一羽がケガすれば、気遣い、遠くへ離れず、
共にし、つがいの片方が悲運に合えば、もはや、帰行すらもやめる。

 一羽では生きていけないこと
  強烈な家族愛
  集団への帰属意識
  個体と個体、個体と群れ
  生と死  シベリアと東北 雁と人 過去と未来、

 すべてにおいて、きつく結ばれ、何万年も、頑なに保持している。

  飛び立つ瞬間から 映える その飛行形体、美しい連動と連帯、
  秋の夕暮れや満月、冬の寂りょうたる光と地鳴りする飛び立ち。
  さぞや壮観だろう。  

  ‐ 晩年の芥川賞作家の一文抜粋 ‐
     「両親、師、友、仲間...。絵画、音楽、映画...。
      いま、その大半は失われたけれど、
      折節に積み重なった「出会い」と「交流」
      の憶い出は、天高く隊列をなして飛びゆく
            "雁行"にも似て、
      それぞれは独自の「点」でありながら、
      巧まざる"縁"の「線」となって、
      気高く、いとおしく、いい知れず美しい。」

             安岡章太郎著 「雁行集」より


 鳥の中でも最も原始的な部類に入るマガンの生態はほぼ未詳で、
寿命すらわかっていない。 飛行ルートが解明されたのもごく最近の話で、
通信機器の小型軽量化によりもたらされたという。

 江戸時代には狩猟することが固く禁じられ、手厚く保護されていたものの、
明治が始まるとともに解禁・乱獲で、たちまち4種が絶滅し、マガンを含む
生き残った他数種も近代化、国土開発のあおりで生息地を奪われ激減。
 ついに、昭和46年、ヒシクイとともに天然記念物に指定される。この時、
日本で確認されたマガンの総個体数は、仙台の福田町にいた約2000羽
のみで、ほぼ日本ルートは途絶えそうになる。 さらに国道4号線のバイ
パス化工事に追われるようにして、逃げた先がここ伊豆沼となり、以来、
弛まない保護活動により、冬鳥たちのサンクチュアリー(聖域)となる。
 現在、日本に飛来するマガンは10万羽を超え、その約9割が、伊豆沼・
内沼、蕪栗沼、化女沼など宮城県北部一帯の平野に集中している。
              カブクリウエットランド HPからの引用・抜粋多数

 冬季には、巡礼のように全国から鳥屋さんたちが、早朝の雁の飛び立ちを
拝みにやってくる。 朝焼けのなか、一斉に飛び立つ何万羽の雁の群れ。

 しかし、気になるのは一見して、伊豆沼の水質が明らかに悪いこと。
この膨大な数の水鳥たちが狭隘な環境に密集して越冬しているということは、
裏返せば、また、別の問題が起きてくる。
 伊豆沼周辺一帯は、日本で二番目にラムサール条約に登録された
渡り鳥にとって最重要地域なのだが、過密化による水質の富栄養化に至っては、
現地の人々の絶え間ない保護活動と、自然の浄化作用そのものをすでに
超えている。 
    水鳥たちの我慢はいつまで持ちこたえるのか?
    生態学的には、揺り戻しが必ず起こる。 ある閾値を超えると、
    雪崩のように。 鳥インフルエンザが、なぜ、野鳥をキャリアと
    しているのか? 特に、渡り鳥を選ぶ訳は・・・。
    

  鳥屋のガイドは学生時代から、この聖地を見つめている。

  今や 鳥とともに生き 四季の移り変わりを 家族とともに
  自然にゆだね、また格闘し 過疎高齢化にあえぐ農村に
  あえて棹さし 冬の終わりの帰雁を大切に生きる


 彼が大きな決断をして、東北の地へ越したのは、昨年の3月10日。
             
 それからの一年は想像しがたい。

 登米は内陸部にあたり、直接の罹災は免れたものの、インフラの断絶、
地域性の結びつきが強い沿岸部が津波で壊滅状態となったことによる
混乱等が重なり、報道で見聞きしてたより遥かに事態は窮していた。
 ヘドロを被った瓦礫処理作業の話や、度重なる余震の恐怖、情報も
ない、電力も動力もない、寒さも厳しい、過酷な惨状は、被災地域から
人々の言葉を奪った。 原発のメルトダウン、爆発事故がさらなる悲劇を
招き、行方不明者の捜索、救助、避難者の救援、インフラ復旧とすべてに
わたって影響したことは間違いない。  

 南三陸町は登米と県道2本で結ばれている。 その惨禍は、幾度となく
メディアで報じられ、鉄骨が剝き出しになった防災対策庁舎は、いまだに
献花に訪れる人が絶えない。 山道が緩やかな下りになり、景色がひらけ、
湾が見え始めた瞬間から、どこかの戦地かいつかのゴーストタウンを彷徨う
ようで、うまく状況が呑み込めくなる。 
 津波に耐えた大きな構造物だけが無残な形として際立ち、あとは根こそぎ
何もかも押し流して、さらっていった。どれほどの瓦礫があったのかは一年が
経ち、多くの者による途方もない尽力によってだろうが、中心部はおおかた
片付けられ、ただ荒涼としており、閑寂していた。
 大きな病院の壁に印されていた 津波の到達線 を地上から見上げても
現実感にとぼしく、 車から降りて30分ほど、結局、何も思いつかず、考え
れず、歩いてまわることもできず、言葉も失う。

 人影もまばら、重機もストップし、ダンプの往来も少ない。
 いっこうに始まる気配のない復興。

 剝き出しの地面に、基礎の枠組みだけが何かの面影を映し、繋がれて
たであろうものは、ちぎられ、曲げられ、切断され、水塊となった巨大な
有機体を前にし、"形あるもの"はあまりにも非力であることを物語ってた。
残骸として行き場のないガレの山塊がどす黒く佇み、ソトモノが注視する
のを拒む。 身体が発する異常な緊張と周囲の静けさが相容れず、ただ、
3月の終わりにしては冷たすぎる風で、手が震えていたことを思い出す。

 すべての荒廃の向こうに見える海だけが心を落ち着かす。

 帰り際に、いち早くオープンしていた仮設のコンビニで、地元の中学生が
たむろしていた。漁師の息子たちなのか、都会の同年代に比べ、たくましい
というか、勇ましさがうかがえる。 野遊びで育った顔。 彼らの顔だけが、
海とおなじで屈託なく、被災地で見た唯一の光明のように思える。  

 こんなことを、登米の物産館の外で、寒空の下、物売りをしていた南三陸
の方と話せる偶然が与えられた。 彼が売るべき地のモノはほとんどなく、
わずかに仕入れたワカメやら内陸の加工品を販売する。 おそらく無償で。 
  「何かの縁ですから、どうぞ」と、デザイナーが本職の青年から、渡された
カレンダーは、毛筆で力強く書き殴られ、おおきく

          自然に生かされ
          自然に奪われ
          それでもここで
          暮らしたい  


  と、宣言されていた。 
 昨年の"あの時"の話を少し交わしたが、多くのものをなくした彼からの言葉
は、わずか数十分の会話でも、伝聞めいたものに似つかわしくない。
 全国の方に感謝している。 はじめとおわりに、しっかりとおっしゃっていた。
被災地を 「ぜひ見ていってください」 と言っていただいたとき、何かが和らいだ。
ふと、前日の朗らかな中学生たちの面持ちについてふれると、すこし厳しくした顔で、
 「彼らにみんな救われた。子どもたちにどんなに救われたか」。
 「震災後、それがよくわかった」。
 「子どもたちがが大人になったとき、生まれ育った場所で、
 同じように働いて暮らせる。そのためだけに、大人は頑張れる
」。
  「10年後、もう一度来てください。 いいまちに・・・。」 

 すでに、未来へ、次世代へ、かの地の人々の眼差しは光る

  遅遅として進まない政府主導の復興事業計画に加え、長引く仮設暮らし、
雇用先の喪失、働き手の流出。 すべてを引き受けたうえで、すべてを失った
者が語る未来は、すべて次世代のためへ向かってる。 
  雪の舞う暗闇の中、泥にまみれて凍えながら、ゆれる瓦礫の上で一夜を
過ごし、翌日、目にしたどうしようもない光景に、どれほどの無常感に晒され、
うちひしぎられても、尚、彼らの選択する未来は 海とともに暮らす

 海がもたらす恵みに感謝し、お世話になった方々への恩返しとして、自慢の
幸を贈りたい。 自然と相対し、その有難さも恐ろしさも熟知してきた人々は
親しみも畏怖の念もより強く抱いている。  愚直なまでもの郷土への思い。

  人が(自分を含む)自然を愛するということは、その厳しさ、怖さを
体験的に把握し、その中で抱く、己の無力感と非力さを痛感しえて、はじめて、
与えられたものの有難さ、大事さ、その価値本来を "かけがえのないもの"と
する"情感"が立ち上がる

  大切に思うということは、大いにせまる何ものかは、
  人智を超えたもの(存在)として、畏れ、憚り、敬い、奉ることで、
  それは、"祈りに近い切実な願い" だと思う。
 

 津波が去った翌日の海がとてもきれいだった。 そう聞いた。
 海底のヘドロも洗いざらいにしてくれ、浄化されたとこに海流が清い水を運び
いれ、魚も早くに戻ってきた。 自然はいち早く回復し、また豊かな生態系を築く。
それを誰よりも知っているのは、その土地の人であり、結ばれた民である。

 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
                                  -石川 啄木

 津波、冷害、凶作と風土の厳しさを身を以て知り、農民とともに生き、
 珠玉の数々を残した賢治や、その風習・文化に日本の原型を探った国男。
 遠くに歩をしるす松尾芭蕉。 彼らの自然観へとつながる東北の地で、
 わずかに輝きだすものを、自らにも見出せた。 そんな旅でした。

 今回、学生二人も同行し、そのままを体験させた。
 彼らが何を感じ、どう思ったかはわからない。
 ただ、彼らにしかわからず、解決しえない未来がきたことが、
 花巻まで導いたと思う。  常さん ありがとう。 東北よ 永遠に。

                          2012年 春
                               黒津 恵三




   以下、日本人と自然観について つづく・・・・・ 


瓦礫の山にみる日本 非常と仏性

 日本人は、元来、地震や台風、火山の噴火等、数々の天災をも内包した自然観、
自然環境の下、多種多様な文化・伝統を築き上げてきた。 有史以来ずっと、島国
の特質として、限られた容量・資源環境の制約を大前提とし、風土に根ざした生き方
を、智慧を出し合い、創意工夫し、折り合いをつけ、秀でた倫理観は、
 「貴重で希少な資源を 無駄にせず 活かして生き抜く」 術となる。  

 お天道様を中心に、山川草木、果ては石ころまでに、神や仏が宿ると見做し、
 神話や物語、和歌や俳句に託され、風習や文化として受け継がれてきたものは
  自然*を敬い、共生し、恵みに感謝して、
       その恩に報いる生き方である
。 
  ⋆自然とは、自分を含む家族や近隣、地域、共同体、国家や地球、宇宙へと
  変換可能な言葉であり、先祖から子孫までも関係する。


 地震 津波 原発事故 と甚大な被害をもたらした今回の大震災。何かの啓発の
契機として無理にでも省みるならば、それは、
   今までのようにはいかない
社会システム根本から個人のライフスタイルまですべてが、原発神話とともに
瓦解した。ということ。 
 科学技術の発展が社会、しいては人々を幸福にする。という原理主義で
敗戦後、突っ走ってきた日本人に寄りすがるものはない。 どうするのか?と、
自然(世界)から投げ反された難題は、日本に生きる人すべての、社会・経済
活動から生活様式にいたるまで、大きな修正が、
今、突き付けられている。 
 いつ爆発するかわからないおもちゃを手にして、慌ててお手玉し合ってるのが、
現在の日本のガバナンスであり、政官財の歪な三角形で作りあげられた、原子力
政策に象徴される日本型システムだ。 メディアは暗幕として使われ、さらに助長し、
おこぼれに与かる。 東京電力という機能・構造は、そのまま、システムを現し、
自己決定権も責任もなく、競争もないとこで、利権の分配だけに重宝される。
リスク管理も対策も対応力もないなかで、想定される安全のもと、人目を避ける
ように、避けるようなとこで、原発は再稼働していく
 このすべてに、国民は関与せず、決定され、また、システムに嵌め込まれる。

 来月には全原発が停止し、供給不足のまま、ピークの夏を迎える。 メディアは、
不安を煽り、性懲りもなく、その有用性を匂わせ、説き伏せてゆくだろう。
 デンコちゃんが『電気を大切にね』。と、謳うが、それは、『自然を大切に』と、
同じぐらい空虚で、陳腐な言葉で欺瞞に満ちている。
 財界、産業界からの強い要望で、ごまかしながら、一つ一つ再開させていくこと
だろうが、そこには理念も理想も、原則もなにもない。 ましてや、反省もない。
 電力の安定供給は国民すべての生活の基盤。 天からの声である。
彼らの握る独占権とその決定に、国民はなんら関われず、代表者たちの
議論の中心は、消費税と選挙であり、また、同じように、過ちを塗り重ねる。
 すべては天災であり、想定外なのだから、責任を負うことではない。
負うのは電気代だけであり、国民に選択の余地はない。

 このシステムを支えており、なかば、有難く思う。 そういう世代で、すべて、
決定され、運営されている。 もはや、システムと同一化しているトライアングル
に、新たな道や発想を期待しても無理だということ。
 今まで、うまくやってきた。 築き上げてきた。 日本を経済的に豊かにした、
という自負心は、瀕死の原子炉によく似てる。

 抜け落ちているの莫大な負の遺産であり、 放射能汚染や、膨大な国債など
ではなく、次世代へのビジョンであり、後世への自然を含む日本人としての
アイデンティティの欠如である。 それは、土地を愛せず、自然を理解できず、
上へ上へと、コンクリートで高くする。 そう望んだ我々だったのかもしれない


 もはや絶望という言葉が、また、立ち上がる。
 
 だが、
 津波で壊滅された故郷を前にし、その絶望としか言いえない無常感に
さらされ、呆然とし、それでも生きている いきてゆく という三陸はんもうど。 

 一度絶望した人間が、生を絶つことをとどませ、生きると決意する、
 意志のようなものの表れ、この発露を、人は希望というのだと思う。
 
 どのようにありたいか、それは、未来を含む現在の実存であり、
 ながらく、日本人は、主題を後回しにしてきた。

 借りもので見繕う華やかさに心疾しくおもうのは、今の若者が消費する
 ことから遠ざかる、消費する魅力も、余力もない実態からでもみてとれる。

 もはやメディアも機能しない。 まして、溢れかえる絆やヴァーチャルな
 繋がり、広がりなど、簡単に結べるものは、簡単に解ける

 では、どうするか? どうありたいか?

 すべてのものにつきつけられている。 言語では解答できない問いかもしれない。

                               K

 
 ここまでお読みになってくださり ありがとうございました。
 以下に、少しだけのお礼を貼っておきます。 

雁 枕詞は「遠つ人」

(集団の)絆の三元素  
     運動  exercise
     規律  discipline
     愛情  affection

       敬愛する シーザー・ミランの言葉から


 キーワード
   常 秀 晃 今 日 明 未 陽 人 光 子
              

赤城山 アラカルト 1

2012.02.25

 やまもりのメインフィールドになります赤城山(あかぎやま)
日本百名山の一つに名を連ねる名峰ですが、最高峰の黒檜山(1827.6m)を筆頭に
地蔵岳、鍋割、荒山、長七郎、鈴ヶ岳などのピークの連なる山塊の総称であり、
厳密には、赤城山という山(峰)はありません。 榛名も妙義もしかり、上毛三山。

  赤城の中央部にはカルデラ湖である大沼がどっしり水を貯え、
湖畔にはどうどうとしたミズナラの純林が広がり、広葉樹独特の
明るいこの森は 子どもたちの 格好の遊び場です。

  ここには、シカやらキツネやら、カモシカやらツキノワグマやら
わりかし大きめの動物が生息しており、フクロウもウサギもネズミも
普通に生活しています。 春、夏、秋、冬。

  この雄大な自然で遊ぶ一日を、簡潔で透明感溢れる文章で
書き上げられた 短編小説 『焚火』 。 一昔前の人は、教科書で必ず
読まされたはずなのですが、いつからか除外され、小鳥島の赤城神社 
にある文学碑も、なんだか寂しい限りです。   
 
  深い森と静かな湖、そして焚き火。
 

 【 Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠くほうった⋆。

 薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。

 それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。

 上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。

 そしてあたりが暗くなる。

 それが面白かった。

 皆でほうった。

 Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。

 舟に乗った。 蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。

 舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑って行った。

 梟の声が段々遠くなった。 】             ⋆ほうり投げたの意

    白樺派 志賀直哉 の見た赤城 
    今も変わらず静寂はあります(平日限定)。

                                    K


   ここで問題。トップの写真に写るのは、朝陽ですか? 夕陽ですか?
   お子さんにお聞きください。

センス オブ ワンダー

2011.11.01

 環境教育の現場ですでにバイブルとなって久しいこの本。
 レイチェル・カーソンの1965年の著作である。

 生物学者の彼女は、62年に『沈黙の春』(サイレントスプリング)で世に知れ、
64年に他界することになりますが、その翌年に、この本が出版されてます。
驚きなのは、その文章力というか、自然の細部を言葉にする表現力というか、
とにかくメッセージ性が強く、それがよく伝わる。 それもそのはず、彼女は
作家志望で文学少女だったのが、大学の生物学の授業に魅了され、当時、
女性としては珍しく理系の博士になった、とのことです。

 極論ですが、環境教育や自然体験など、仰々しく言われますが、
 要は、この『センス オブ ワンダー』を導き出す。この一点だと思います。

 彼女は言います。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きして新鮮で美しく、驚きと感激に
みちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに
澄みきった洞察力や、うつくしいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、
あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもたちの
成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、
生涯消えることのない 【センス オブ ワンダー =神秘さや不思議さに
目を見はる感性
】 を授けてほしいと頼むでしょう。」

  『この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが
  自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中に
  なるこことなどに対する、かわらぬ解毒剤なになるでしょう。』


  さらに、
「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子ども
たちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だと
したら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。
幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、
新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情
などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるもの
についてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識
は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実を
うのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることの
ほうがどんなに大切であるかわかりません。』

 今から50年前、癌で侵された闘病生活の中、書かれた名著であり、遺作です。
 是非、ご一読を。

 本日、ニュース番組で窓越しに外を眺める福島の幼い女の子を見ました。
 お母さんが、「外で遊びたいのだと思います」と言ってました。
 もう3か月も、外で遊んでないそうです。

 いたたまれなくなりコラムを書くことにしました。
                                     K

常さん ありがとう。

2011.02.23

長らく、山森の体験キャンプの動物探査隊長を務めていた常さんが、この度、宮城県のほうへ就農のため、旅立ちました。

いつも子どもたちの先頭に立ち、夜の森の中へその洗練された動物感覚でいざなぎ、あらゆる動物の痕跡を探し、糞の匂いを嗅ぎ分け、子どもたちを魅了し、野生動物の気持ちをわかりやすく伝えてくれた常さん。 いつも動物の鳴き声をしてくれてありがとう。いつも送迎のバスのなかみんなに付き添ってくれてありがとう。いつもみんなの起きる前に動物の写真を撮りにいってくれてありがとう。いつもみんなに動物の話をしてくれてありがとう。いつもみんなへおやつを用意してくれてありがとう。 常さんが口笛で呼ぶ鳥たちに囲まれ、森の中で過ごした時間はみんなの貴重な宝物。常さんが物語る自然の話はみんなの思い出。 いっぱいいっぱいありがとう。また、森を案内してください。

K (代筆)

マグカップの芸術

2011.02.15

主催事業での講習会や体験キャンプではマグカップを持参していただき、休憩時間にはフリードリンク形式でコーヒーやらココアやら紅茶などをセルフで楽しんでもらうことが多いのですが、最近の子どもたちのカップは多様性に満ちている。

これは先日の冬のキャンプで無造作に置かれたマグカップの写真ですが、一つ一つに個性があり集まると華やかさが出てました。懐かしい"MILO"の文字も見えます。

衛生面の都合上やその手軽さから紙コップで済ませてしまうことも可能ですが、環境を考えるのはこうしたミクロの生活からではないでしょうか。 第一に、綺麗ですよね。味気のない紙コップよりも。

K

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